石のまち宇都宮の
 歴史を支えて
 百五十年余
 宇都宮石材協同組合

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宇都宮石材協同組合ヒストリー
その軌跡

宇都宮石材協同組合(全身:宇都宮石工組合)
の始まりは、明治5年とされている。
ここでの「されている」という表現は、
明治・大正・昭和という日本が迎える
大変革期の中で、組合に関して記録されている
文献、その他物品の一切が戦火により焼失して
しまっていて今や記事としては確認することは
出来ないことを意味している。
しかし、代々伝承されてきた石工の技の如く、
その時々の時代を継承し語り継がれてきた先人
たちにの言をもってすれば、その起源は明治5年
1月に行われた第1回の集会におくことが出来、
かつ我々もまたその語り伝えられた歴史を尊重し
起源とするものである。
さて本稿の主旨となる組合ヒストリーであるが、
明治・大正・昭和・そして平成令和と5つの年号を
経過して現在に至るが、組合もそれとほぼ並行する
ように大きく分けて四つの区分に分けられ得られる。
一つ目の明示は組合の創成期。二つ目の対象は
転換期、三つ目の昭和は確立期、そして平成令和
の現在は飛躍期であると考えられる。
時代とともに考察したい。

明治時代と組合創成期~大正時代と組合の転換期

明治時代と組合創成期

近代日本の幕開けとなる明治年間は、周知のように明治維新による新政府樹立。つまり近代国家に生まれ変わるべく政治経済、国の仕組みすべてが変わり、自由民権運動から大日本帝国憲法の制定、日清日露の戦争に突入していく大激動の年間であったが町の石工にはどのように捉えられていたのだろうか?組合元年となる明治5年(1872年)は、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定め、その日は月曜日から始まる閏年であった。このような時代背景の中に組合は産声をあげる。我々の大先輩方がどのような商売をしてきたのか、背景となる2つの視点から推察してみたい。一つは大谷石であり、二つ目は軍都宇都宮である。宇都宮市を語るうえでは地場の大谷石があり、また近郊の徳次郎石や芦野石といった石材を利用しながら町の石工たちは主に石蔵や石塀、石垣、灯篭、建下(布基礎)などの仕事に従事していたようである。地場産業の大谷石は1897年(明治30年)に人車鉄道(荒針西原間)が開通後、生産が本格化した上、第1次大戦期の1915年には急速な需要の増加に応じて、日光線に直結する荒針・鶴田駅間の軽便鉄道(宇都宮石材軌道)が開通した。この人車鉄道の開通により大谷石を効率よく運ぶことが可能になった。第1次大戦後の不況期に一時需要が低迷したものの、大谷石を使用した帝国ホテル(1922年・大正11年)で脚光をあび、翌年の関東大震災を契機に再び需要が増大、石の町うつのみやは以後昭和まで大谷石の全盛期をむかえることになる。

大正時代と組合の転換期

また軍都としての一面であるが、明治41年から駐留した陸軍第14師団により敗戦まで宇都宮は軍都であった。移駐にあたる(当時年間100万円)消費需要を見込んで積極的に誘致しそのおかげで師団が設置されると巨額の消費需要が生まれた。(明治時代の1円=現在の2万円、米10kgが1円12銭、あんぱん1銭、明治44年次石工の日給は0.75円。左官職は0.68円、大工職は0.63円)ちなみに明治40年は日露戦争後の不況の年であったが、移駐にあたるこれらの工事で宇都宮市民は不況を回避することが出来た。宇都宮の石工たちも何かしらの経済的恩恵を受けてきたことは想像に難くない。さて、石工でも山石工と町石工とがある。同じ石工ではあっても採掘石工と仕上げ石工では、内容はもちろん道具の使い方も違う。我々宇都宮石材協同組合の前身は、宇都宮石工組合といい、町石工の集まりであった。そうした中、組合は転換期である大正時代を迎える。大正時代は大正デモクラシーと呼ばれるように、民主主義・自由主義が声高に叫ばれ、個人の自由や人権等が強く主張された時代であり、またそれゆえに米騒動以来の労働争議が激化した時代でもあった。また、この時代の大事件と言えば関東大震災があげられる。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、東京・横浜地域を直撃した大地震。震源は相模湾西北部でマグニチュード7.9を記録し、関東全域と山梨、静岡に及んだ。地震は小田原周辺がもっとも激しかったが、被害としては家屋が乱立する東京・横浜が極めて甚大であった。また、昼食準備のために火を使う、正午少し前に地震が発生したことも地震とともに火災が誘発される原因となり、被害は拡大。死者は9万9000人弱、ほぼのべ10万におよび行方不明者は4万3000名を越した。全壊家屋は12万6000戸、焼失家屋は44万7000戸、罹災者は340万人に上った(数字の出典は「国史大辞典」より)。被害としては日露戦争の死者数よりも、のちの東京大空襲よりも大きく、広島・長崎の原爆投下に次ぐという。世界を震撼させた東日本大震災とも重なり悲痛な思いである。関東大震災では栃木県下には死傷者は出なかったが、首都東京や神奈川は甚大な被害をこうむった。前述した通り、大変皮肉な事であるがこの関東大震災による復興のため、大谷石の需要は拡大する。

激動の昭和と戦後の組合確立期~平成令和の歩みと飛躍期、 そして未来へ

■激動の昭和と戦後の組合確立期■
時は昭和に入り、日本は果てしなき大戦争へ突入する運命に走り出していた。時代は帝国主義全盛であり、弱小日本は自衛自存のために海外列強国へと戦争の道を辿らざらなくを得なくなり開戦に至り。早期講和を求めるも道は付けられずに戦線は拡大。連合軍の圧倒的な物量差を見せ付けられ、活路の見えない逼迫した国情の中原子爆弾が投下され、多くの尊い犠牲の上に、降伏し敗戦を迎える。冒頭に述べたよう、この間の石材組合の記録は残念ながら一切無い…。終戦後は戦死者鎮魂のために各地で石碑が多く建つようになる。墓石は多くの戦没者の魂が昇華されるごとく立ち並んでいった。私事であるが私の祖父も石工として戦火に散った友人知人の石碑を手掛けることになり供養の心をかたむけた一人である。戦後の混乱期を経て、日本は高度経済成長を迎えていく。石材も加工技術の発展伴い、花崗岩(通称:みかげ石)など、硬質の石材を加工する事が用意になり海外の石材の流通とも相まって昭和50年代には「墓石ブーム」と呼ばれる程、墓石の需要が急速に高まった。宇都宮市でも北山霊園、聖山公園といった市営霊園が開設され墓石工事は隆盛を迎える。昭和の確立期としてやはり特筆すべきは、昭和53年5月18日に宇都宮石工組合から現在の「宇都宮石材協同組合」への発展である。組合員数28名をもとに4つの事業(共同受注、教育情報、福利厚生、共同購入)を柱に、任意団体から法人格を取得した組合へと大きな発展を見た。専門的な職人(プロ)集団の事業体を目指す力強い結束は、組合の歴史の中でも大きなエポックと言えるだろう。そして理想にとどまらず、実際それからの組合の活動はオリオン通りのシンボルロードの施工、二荒山神社の石畳等の組合共同受注や各石材丁場への研修旅行、栃木県石材組合連合会主催ソフトボール大会等にも積極参加し、事業推進と組合員交流を行い現在につながる基盤を作り上げてきた。

■平成令和の歩みと飛躍期そして未来へ■
平成に時が移り、宇都宮市営・東の杜公園(平成10年2月開設)の計画と共に組合は参画し、いかにしたら市民の利便に寄与することが出来るか?石材のプロフェッショナルとして意見を述べ宇都宮市と共に創り上げてきた。霊園開設後、老舗の宇都宮石材共同組合と霊園利用者の利便性を図る主旨の為に設置された東の杜石材協同組合は合併し、これにより東の杜協同組合は発展的消滅を遂げた。新生・宇都宮石材協同組合は技術者としてのアプローチから、本当に安心安全な施工とは?の問いに専門技術を駆使した「施工マニュアル」を作成し発表。また工事自主検査の実行により技術の安定・均衡化に取り組み、施工後は組合と施工店の双方によって補償される業界初の「ダブル補償」制度を構築し、安心を追求する顧客の立場に立った提案を次々と実現してまいりました。令和7年現在、宇都宮石材協同組合は153周年を数え、また太子講拝礼113周年を迎えます。遠く153年前に生まれた宇都宮石工組合。その後様々な時代と変遷を経て、時には存続の危うきも超えながら現在があります。その間には様々な人たちの情熱と苦労と多大なる時間と労力の中に今の私たちはおかれています。

「水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない」

先人たちの偉功を忘れず次代へ渡していく。この度の宇都宮石材協同組合153周年そして太子講拝礼113周年にあたり私たちは、今一度その原点に立ち返り、その「想い」を胸に刻み、その歴史を石工の技術と共に語り伝え、未来へと繋げていく使命があるのだと強く感じます。そして聖徳太子は日本仏教の祖であります。「和をもって尊しとなす」日本人にとっては有名すぎる名句ですが仏教の根本である和。他を排撃しない「和」。小さくは家庭からはじまり、職場、学校、社会、国家間までとそれぞれのスケールの違いはあっても根本は一つ。相手を思いやる「和」の精神こそが大切なことと感じます。宇都宮石材協同組合はどこまでも和の精神を基盤に、石工の技術と職人の心意気を未来に伝承してまいります。そしてこの節目に居合わせる一人一人が、その自覚を持ちますます広く社会へ貢献し、還元できる団体へと成長していくべく実践していく所存であります。

(宇都宮石材協同組合140周年記念・太子講拝礼100周年記念誌より一部抜粋   著 箕輪賢二(株式会社 みのわ 代表取締役)